50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

5時間17分の『ハッピーアワー』

ようやく書き上げたので更新です。

--

特にミニシアター系の映画館においてはそうだけれど、そこに足を運ぶべきか検討する際、「その映画館自体を信頼できるか」が「その映画監督が信頼できるか」ということに対して、重要度において勝ることが多々ある。

 
これは、観ようとする映画の質によっては特に顕著で、例えばそれが「5時間17分の作品で、3部に分かれていて、通し券でも3600円で、もし観るのであれば12時から19時というほぼ半日を費やす必要がある」ような作品の場合は、自分を信じる以上に、その映画館を信じる必要がある。
 
自分にとっては「イメージフォーラム」という映画館がまさにそうで、相田監督の作品や、今でも鮮烈に記憶が蘇る『エッセンシャル・キリング』、そして近年では、自分史上最高の映画体験だった『FORMA』など、ある意味では大変お世話になってきた。
 
そして、今回、映画『ハッピーアワー』をようやく上映最終日に観てきた。昼前にチケットを購入して整理番号は23番。12:50の第1部を皮切りに、19:00終了の第3部まで堪能。最終日だけあって、平日にも関わらず、客席は8割程度埋まっていて、これだけの人がこのような映画体験を同時にするというのは不思議なものだなと思う。
 

 
さて、ともあれ、この映画。
 
出演者はほぼすべてが素人。そのような役者が海外の映画祭で最優秀女優賞を取ったというのは興味深くて、まさにinternationalな視点で観た時に「演技」がどう映るのか、という部分でとても示唆に富む結果だと思う。つまり、「素人っぽさ」という表象はその言語自体と密接に結びついていて、それを母国語とするかどうかで、その「素人っぽさ」の見え方も変わるわけで。この映画のそういった「素人っぽさ」は、海外の人から見ると、ある種の静的な演技に見えるのだろう。小津の作品がそうだったように。
 
そう言った意味では、この「ハッピーアワー」という作品は『リアリティをどのように表現するか』ということについて、挑戦的なアプローチを取っていて、その尺の長さもそうだし、役者の選び方というのもそれに当てはまる。
 
古くから言えば、映画「ポチョムキン」から始まるモンタージュという技法は、鑑賞者の想像力を使うことで、そこにフィクションとしての物語を発生させていたけれど、この「ハッピーアワー」においては、長尺回しが比較的多くある。そこには、編集されていない時間が多く流れている。それこそが、この作品が三部作になっている大きな要因ではあるけれど、多くの映画と違い編集を極力行わないことで、逆説的にそこに現れる物語がフィクションではなくノンフィクショナルなものに見えてくる仕掛けになっている。また、プロの役者を使わないことで、そこに展開される物語がいかにも「演じられている」という通常の映画における状況を脱構築しようとしている。そこにいる役者はあるいは素でもそのような人間なのではないか、と観ながら思ってしまう。それくらい、出演している役者の多くは「下手」なのだ。
 
普通、「下手」な演技に付き合わされるのは苦痛なものだけれど、この映画の場合は、その度合いの攻め方が絶妙。ギリギリまで引っ張って、次の展開に繋げる。これが続いていく。そして、ストーリー自体も特別変わったものではないのだけれど、主演の4人の関係性がどう変わっていくのか、といった点で鑑賞者を釘付けにすることに成功している。
 
物語を簡単に説明すると、登場するのは30を過ぎた仲良しの女性4人組。彼女たちは「自分たちは仲が良い」という信念で繋がっていて、ことあるごとにそれをお互い確認することで安心している。そのような中、第一部の最後に、4人のうちの1人が不倫裁判中であることを告白することで、その関係性に変化が起きる。面白いのは、そのような反社会的な事に対しても、基本的には彼女たちにとっては「自分たちは正しい」と信じきっていること。逆に言うと、そう信じることでしか、自分たちを繋ぎ止める事はできないというのが彼女たちのあり方で、周りの3人はその離婚裁判中の1人を(客観的に見て正当な理由が見当たらないにも関わらず)サポートする。そして、それぞれが自分の置かれている状況に疑問を持ち始め、一人は不倫をし、一人は離婚する意思を固める。
 
鑑賞者にとっては、客観的に見て、他の3人が不貞に走るような理由はまったく考えられない。そして、その彼女たち自身もおそらく自分のやっていることをしっかり説明することもできない。彼女たちにとっては「仲間がそうしているから」という外付けの理由だけが、行動を説明する唯一の理由になっている。
 
物語としては泥沼の夫婦劇といったところだけれど、主役の4人にとっては、起きていることはすべて正しい。ある意味では、彼女たちはまさに幸せな時間、「ハッピーアワー」を過ごしている。 という内容。
 
まあ、このような物語を5時間強も見せられるのは、ちょっと厳しいかな、というのが正直な感想。作品の特徴、そしてそのアプローチについては、非常に面白いし、他の作品と比べても突出した部分がある。しかし、冒頭に書いたように、ある作品が、前後と合わせて6時間程の時間を拘束し、それなりのお金を払わせるという時、そこには相応の責任が発生すると思うし、この「ハッピーアワー」という、ひたすら登場人物の再帰的な物語を見せられるという作品が、その責任を果たせているのかということについては大いに疑問が残る。
 
簡単に言うと「少しやり過ぎ」。特に、長回しで展開される前半のワークショップ風景や、後半のディスコでの風景や、小説の朗読会は冗長過ぎた。映画の狙いは理解できるけれど、コンセプトだけが先行する映画を、手放しに素晴らしいと褒めることはできない。
 
一方で、主演の4人については、最後まで適度に「下手」な演技を続けていて、素晴らしかった。それぞれのキャラクターもしっかりと出せて、現実なのか非現実なのか、その境目が曖昧になっていく感じがとても良かった。
 
とりあえず、第三部が終わった後の、その劇場の雰囲気、とても独特でした。こういった映画体験というのも人生に一回くらいは良いと思う。
 
 
拝。