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50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

言葉と自由 / 最果タヒ「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

言葉、というものは、何でこんなにも言語によって違うのだろう、と。

素朴な疑問としても思うし、真剣に熟考に値する命題としても、度々考える。そして、言語はそれぞれの魅力がある。

英語で言えば、機知に富んだ多くの表現、仏語で言えば、口語・文語共に洗練された美しさ、あるいは、遠くアフリカのとある民族の現地であれば、そのシンプルな力強さ。

それぞれが使われる地域で実際に生活して、どの言語も好きになったし、どの言語も使うのも、異なる気持ちの良さがあった。

そして、日本語の良さは何だろうと思うと。

その良さは小説や詩など、表現する場合に特に顕著な気がしていて、それは、曖昧が故に想像力を聞く側にオープンにすることができる自由度のようなもので。外国語を日本語英語として取り込む柔軟さや、独自に派生するニッチな言語体系、あるいは、文法や単語に規定されるルールを破ることで生まれる表現の豊かさというか。

 

日本には、今、最果タヒ、という詩人がいて。

 

名前の響きも、その字面が生む想像も、とても素敵だと思う。
そして、その作品がそれ以上に素敵で、進行形の今における、日本語のあるべき姿がそこに見られる。


今回、新たに出版された「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

まだ購入していないけれど、そのページの中に無限に広がる想像力があると信じることができるし、そこに無限の可能性が広がっているということ自体に幸せを感じる。


少し昔の詩集「死んでしまう系の僕らに」の後書きの言葉がとてもよくて、それは、要約(意訳)すると、


 言葉というものはどこまでも自由なものだし、
 文法や単語やその他の言葉を規定するものというのは気にせず、
 自分の中にあるその何かをそのまま言葉として誰しもが表現すればよい。


といったようなことで、それこそが、言葉が持つ素晴らしさだし、そして、日本語という言語が持つ、強さだと思う。


コミュニケーションというものが、人間社会において言語が発達して主要な要因ではあるけれど、一方でコミュニケーションに占める言語の割合はそこまで多くもない(大半は表情やしぐさといった非言語表現)。

そうなると、そのわずかな割合のコミュニケーション要員のために、言語を数々のルールで縛って、同じような言葉を誰しもが語るのはつまらないなと思う。その対象が何であれ、言葉を発すれば、それは表現だし、何か文章を書けば、それも一つの表現となるわけで。


もういっその事、テレパシーで会話できたら良いのに。思念体のようなもので。


拝。