50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

戦争と想像力 / ドキドキぼーいず#06『じゅんすいなカタチ』

 

戦争なんて遠い国での出来事のようにしか感じないし。でも、見上げた先に広がる空は、その国に繋がっていることも知っている。そんなことを想った、今日。

 
せんがわ劇場にて、どきどきボーイズ『じゅんすいなカタチ』を観劇。

 

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村上春樹の言うように、フィクションは時には事実以上に真実を剥き出しにすることを可能にするとして、時に、演劇の力とは何かと聞かれれば、それは「人間に想像する力を与える」ことだと思う。ヴァーチャルではなく事実として、地に足の付いた想像力。それを自覚的に作品に落とすのは、若い世代ならではかもしれない。
 
もはや、終わらない日常は今でも続いていて、無自覚に毎日を生きることは簡単で、「いつか自分も死んでしまう」という事実さえ忘れそうになってしまうけれど、当たり前のように人は生まれては、死ぬ。
 
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舞台は少し古くなった一軒家と、そこに残された父親と娘。父親は5年前に失踪し、その間に母親は亡くなる。また、その後、息子も自殺し、この世を去っている。世の中は戦争が激しくなり、日本もその戦争への加担を強めている。
例えば、死んでしまった息子もまた兵器の製造に間接的に仕事で関わっていた。その先にあるはずの「戦争」は遠いところの話ではあるけれど、「母親の死」という身近な出来事(それはある意味では戦争でもある)を通して、「死ぬ」「殺す」「殺される」ということが実態として語られていく。
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今、日本において「戦争反対」を叫ぶことはとても空虚なことで、その言葉の裏には「自分は死にたくない」という気持ちしかない。叫ぶその瞬間にどこかで人は死んでいるのに、その戦争自体に本当に反対して何かを行動できている人はほとんどいないわけで。その真実を見て見ぬふりをして、デモに参加したり、アジテーションを叫ぶ人はいったい何をしたいのだろう。
 
きっと、そこには「死ぬこと」へのリアリティが圧倒的に欠如していて、本当は、まず始めにすべきことは「『死』に対するリアリティ」を持つことだと思う。それは身近な人の死かもしれないし、あるいは自分の死かもしれない。少なくとも、どこかで死んでいるはずの誰かに対してリアリティを持つことなんて不可能なのだから。
 
この『じゅんすいなカタチ』という作品は、その身近な死を語ることで、今の若い世代が置かれている状況を物語っている。そう、まず必要なのは自分もまた死ぬという事実についての自覚。それを認めた上で行動するしかない。
 
『戦争反対』ではなく、『自分は人を殺したくないし、殺されたくもない』という言葉。生ぬるいかもしれないけれど、本当の言葉を語るべきだし、それはこの日本だからこそ言えることのようにも思う。無自覚な言葉、行動ほど怖いものはないし、それを止める「想像力」こそが、演劇という表現が実現する純粋なカタチ。
 
今時、舞台表現なんて、本当の一部の人間しか観ないかもしれないけれど、舞台表現でしか成しえないことは間違いなくあって、それを再認識することができた本作品。
 
 
帰り道、知らない街で進む方向を間違って、真っ暗な路地裏に迷い込んでしまった。一寸先は闇。
 

公演は本日より3/13まで。

 
 
拝。