50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

投票しないこと、について。

結局、選挙に行かなかった。

理由を言うと、期日前に行くのが面倒でありつつ、結局、投票日当日に仕事だったために、間に合わなかったということで。

選挙に行かなかったのは久しぶりで、行かないということについては思うところもあって、それは一昔前に、知人と「選挙に行かないこと」の是非について話す機会があって。

選挙に行く理由をしっかり語れる人は少数派ではないかと思う。

むしろ、行かない人が大多数な状況において、その「行かないこと」について整理する必要があるのではないかと。投票率を上げるための呼びかけはあまり効果がないと思っていて、それよりは「行かないこと」がどういうことなのか(それはその個人にとっての意味付けではなく社会的な意味付けについて)をしっかりと認識することが必要ではないのかと。


今回、選挙に行かなかったことで、その仕事の帰りの新幹線で思いを巡らせてみた。


そもそも投票行動それ自体は個人の責任と判断の結果でしかないので、行かない理由をその個人に聞いたとしても、それは人によってそれぞれ異なるということでしかないのは明白。でも、ここで、その行動が社会においてはどのような意味を持つのか考えてみたい。


まず、投票することについて。
投票することを決めた人が実際に投票する際に、考えられる選択方法は二つ。

  • 一つ目は「賛同できる候補者あるいは政党がある」
  • 二つ目は「賛同できない候補者あるいは政党を消去法で消していく」

選択行動においては基本的にはいずれかの方法で選ぶことになるわけで。ただ、いずれの場合においても最終的にある候補者あるいは政党に投票した際には、それは社会的には「ある候補者あるいは政党に対する支持を表明する」行動として認識される。

ここが一つ目のポイント。

また、投票の際には白紙投票をするという選択肢もある。この場合は社会的には「どの候補者あるいは政党も支持しない」行動として認識される。

これが二つ目のポイント。

いずれの場合も、選択の理由は個人によって変わるかもしれないけれど、選挙の仕組みにおいて認識される結果は上記のいずれかになる。


さて、前述の知人との議論の際に、その知人は「行かないことによって自分の意思を表明する」と言っていた。そして、もし仮に、国民全員が投票に行かなければ、面白いことになるのではないかと。この「投票に行かない」ことがどのように社会で認識されるのか。これが問題で。行かないことがある種の批判的な行動であることを表明する人は多いとは思う。

でも、これって社会的には「いずれの政党あるいは候補者が当選しても、その政策を容認する」ということでしかない。例えば、投票率が25%だとして、「75%の人が投票にそもそも行っておらず、25%の中の半分くらいしか与党には投票していない。だから、国民の10%しか与党を支持していないんだ」みたいな思いを持っている人がいるかもしれないけれど、実際にはそうではなく、それは社会的には「国民の10%及び75%、すなわち85%の国民が与党の政策を支持あるいは容認している」というのが正しいわけで。

これって、すごく重要なことだと思う。

「何も変わらない」「関心がない」という理由で投票に行かない人は多いけれど、実は行かないこと自体も投票行動に含まれている、ということを認識する必要があるわけで。

そして、行かないことで、仮に気に入らない世の中になったことを人のせい(あるいは政府のせい)にする人が出てくるかもしれないけれど、それって完全に自分の責任でもあることを認識する必要がある。


だから、もし、すべての政党あるいは政治家が気に入らないのであれば、その時に選択すべき投票行動は「白紙投票」しかないと思う。仮に75%の人が白紙投票をしたら、上記の選挙結果は「与党は国民の10%の支持しか得ていない」ということになる。
こうなったら面白いと思う。本当に。


民主主義を否定する人はほとんどいないと思うけれど、その民主主義を貫く限りは、上記の投票行動の認識は持つべきだし、こういうことって投票の案内とかに記載した方が良いんじゃないの?

「仮に投票しない場合は、選挙結果を容認するという立場として解釈されます」みたいな。

政治なんて国民をいかに騙すかなんだから。

 

このクソッタレな世の中が1mmくらい良い方向に進んで欲しいと思うなら。


と思う。
まあ、投票に行かなかった自分が言うのも何ですが。
自民党なんてまったく支持していないけれど、結果について、文句は言えない。


拝。