50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

能と歌舞伎 / コトリ会議「あたたたかな北上」

 

もう、15年以上前のこと、大学受験の時の話。

たしか、あれは国際基督教大学の入試だった気がする。
特徴的な入試をする大学で、文章理解と英語と知能テストのようなもの、そのあたりがその入試の内容だったと思う。少なくとも、いわゆる「受験勉強」が必要な大学ではなくて、だから自分は受けたのだった。(正確には高校の先生に勧められた)

文章理解は長文の読解(日本語だったのか英語だったのか記憶が曖昧)で、入試というものは答えさえわかれば文章の内容そのものに注意を払う必要はまったくないのだけれど、幾つかあった長文の中の一つの内容のことを今でもよく思い出すし、それは自分の観劇における一つの指標と今もなっている。

それは、「能」が生み出す空間の密度と深さについての文章だった。

 

その長文の論考は、外国人によるもので、日本の芸能文化の中で、能と歌舞伎を対比して、論考を展開していた。

結論から言うと、その文章は「いかに能が歌舞伎に対して素晴らしいか」について書かれた文章だった。

そこには、決して派手ではない能において、シテとワキの役目がどのようなものであるか、その精神性がどのようなものであるか、それが日本人に精神にどのような深く結びついており、その精神性の記号となっているのか、等々が能に対する愛情と共に綴られていた(と記憶している)。

その時、自分は能を自分の目で見たことはなかったのだけれど、能の素晴らしさというものが、とてもしっくりと頭と心の中に入っていたし、それが今でも心に刻まれているし、その後、舞台表現を色々と観る上で、自分の中のひとつの基盤となっているように思う。それは、そこに展開される事象の表面だけではなく、その後ろに広がる深さを観るということ。

とても不思議なもので、その文章は同じ日本人ではなく、外国人によって書かれているものなのに、時折、ふと思い出してしまっている。

 

舞台表現がなぜ面白いのか。
それは、舞台上ですべてが起こっているからで。

舞台上にある役者と舞台装置と流れる時間がすべて。その制約の中で、どこまで表現が昇華されていくのか、それが、舞台表現をする上でのすべてだと言える。


そのような意味では、やはり能は、最高峰だと言えると、心から思う。


ミニマルな舞台と演者の動き。能面を被ることで役者の表情は限定される。その中で、あらゆる想いが、時には数百年の時間、あるいは数百キロの距離を超えて、交錯する。理解しようとすれば、わからないことが多いのは事実。それでも、能を観ると、本当に心から痺れてしまうのは何故だろう。

 

そのような静かな表現に眠る深遠さ、といったようなものが、コトリ会議の舞台にはあった。

先日、こまばアゴラ劇場にて、短距離男道ミサイル×オレンヂスタ×コトリ会議 合同企画「対ゲキだヨ!全員集合~お題は家族♨︎3劇団で3県回るヨ!!!~」を観てきた。

短距離男道ミサイル×オレンヂスタ×コトリ会議| 2016 – 2017プログラム|公演案内|こまばアゴラ劇場

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3つの劇団による公演で、その中の1つが、コトリ会議による「あたたたかな北上」だった。

とてもシンプルな舞台と役者の配置。薄暗い舞台照明の中で展開されるのは、心の奥深くに眠る声。遠い宇宙のずっとずっと先に届くわけのない心の声の断片は、リフレインによって、少しずつ増幅され、その声は客席にいる観客の胸を打ち、届くべき相手の心に響きわたる。

たった40分程度の作品なのに、どこまでも深く心が沈み込んでいったし、遠い知らない世界に思いを馳せてしまった。とても日本人らしい表現だと思う。


生きていることは、当たり前だけれど一回性の出来事で、表現することもまた一回性の出来事でしかない。そう考えると、舞台で表現するというのは、表現において至極真っ当な方法であって。

たまに映画を観に行ったりもするけれど(そして少なく無いケースでがっかりしてしまう)、たとえ面白くなくても面白いのが舞台表現で、再帰的に言うと、それが舞台を観に行く理由。

 

舞台を観終わって、帰る途中、また、ふと、その文章を思い出した。

 

拝。