50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

最先端なのか異端なのか / ミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」

Nibrol主催の矢内原美邦によるミクニヤナイハラプロジェクト。その公演「東京ノート」を観劇。いわゆる『静かな演劇』を代表するマスターピースであるこの作品を、その対極に位置するような表現を当然の如く展開する矢内原美邦が演出するとあって、幾つもの視点で必観。

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ともあれ、まずはこのポスターが最高。「東京」という記号が、もはや大きな物語ではなく、『個々の東京』としか存在し得ないこの時代をまさに表現しているように見える。公演が始まる少し前に完成したらしく、チラシには使われていなかったこのデザイン。手元に残しておきたいと思える一枚。

タイトルに「東京」という記号が含まれるこの作品。まず、この時代において「東京」とはどのような場所なのか。人によってその答えは異なると思う。そしてそれこそが、この「東京」の定義。ありとあらゆる情報が内包され、ありとあらゆる場所や時間にそれらが無秩序に展開される。それは、ビル広告に始まり、ディスプレイ、電車の中吊りやモニター、あるいはスマートフォンの中のつぶやきや投稿など。この10年あまりで、ある個人が処理する情報は、時間単位で言えば、数倍あるいは数十倍に膨らんでいるように思う。すべての情報は浮遊して、目前には常に何らかの情報が提示されている。そういった中、それらの情報を無意識的に取捨選択し、自分にとって重要あるいは関心を持つ事柄だけを上手にピックアップする能力が育っている。この密度が今や、今を東京で生きる人間にとっては「普通」の密度。

一方で、「メディア」はその密度を体現しているとは言い切れず、今でもテレビを付ければニュース番組は淡々と事件を述べているし、CMは相変わらずの長さで展開しているし、ドラマは1時間という尺がお決まりになっている。他のメディア、例えば映画を見ても、その長さは決まったように2時間が平均となっている(もちろん、この前の『ハッピーアワー』のような作品もあるけれど)。でも、東京の密度において、この「長さ」は本当に適当なものだろうか?

そして、演劇に代表される舞台表現こそ、この密度とはまったく相容れない所に位置付けられると言える。舞台においては時間の速度は常に一定。YouTubeのように不要な映像をスキップすることはできず、そこから得られる情報は常に時間と等倍のものでしかない。また、SNSのように双方向のコミュニケーションは発生せず、そこには常に演じる者と観る者という関係性しかない。舞台上で他人称は存在し得るとも、役者と観客の関係性が交換されることはない。

オリジナルの青年団による「東京ノート」の初演は1994年。それは、まだ、辛うじて『大きな物語』が共有されていた時代。そして、同じ密度の空気感が共有されていた時代。そのような時代において、まさに「等倍の演劇」である青年団の戯曲は時代を象徴的に表現していたし、それが「東京ノート」がマスターピースと呼ばれる所以でもある。では、そのような戯曲をこの2016年に表現する意味は?

矢内原美邦と彼女が率いるNibrolに関して言えば、結果的にようやく時代が追いついたのだなと、こうやって作品を観て改めて思う。超高速での発話と動きを特徴とするその作品を初めて観たのはもう10年以上前になるけれど、宮沢章夫の言葉を借りるならば、文字通り「よくわからなかった」ということになる。それは、まさに異端の表現だった。ただ、もう一つ感想を付け足すとすれば「それでも面白かった」。いつかの公演のアフタートークで宮沢章夫矢内原美邦に「全部を聞き取れないし、よくわからない」という内容を感想を述べたらしく、それに対して矢内原は「それでも耳には聞こえている」と答えたらしい。これって、まさにその未来にある21世紀の東京の密度を見据えて作品を作っていたとしか思えない。つまり、現代においては対峙する情報は既に一個人が処理できる容量を超えてしまっている。このような時代に置いては意識的にではなく、無意識的に情報を取捨選択していくことでしか生きる術はない。そして、そのようなatitudeが「表現」においても求められる。矢内原美邦の作品は、本来、時代とは逆行しているはずの舞台表現というフィールドにおいて、いつの間にか最先端の表現となってしまっている。身体性が何よりも増して強固な表現になるなんて、本当にワクワクする。

このミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」は本当に圧倒的な作品で、矢内原美邦の身体性が拡張する形で、役者、映像、照明に乗り移って表現に昇華されていくよう。役者と役者の間を飛び跳ねるように移っていく主体。そして、実際に舞台上を飛び回るように何度も何度も全力で往復する身体。その中の無意識が映像となって広がっていく。この「東京」というノートをパラパラとめくっていくかのように、ひたすら目で耳で一瞬一瞬を追っていった。

残念なことに、遠くで戦争を起こっていて、この日本あるいは東京でも、その戦争を間接的には感じるようになってしまっていて、その「遠く」と「近く」の間に漂う、この空気感がそこには表現されていて。

作品を観終わって、面白かったとか、つまらなかったとか、ではなく、生きるということに対して完全に向き合っていた時間がそこに流れていて、そういう作品を観ることができたという幸せ。とても75分という密度だっただなんて信じられない。

 

もう二度と上演されることではないだろう作品に合掌。

 

拝。