50の風景と、風景にまつわる言葉。

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10年前の夜は何をしていたっけ - マームとジプシー 『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』-

 マームとジプシーの公演について。

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マームとジプシー
『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』
作・演出:藤田貴大
出演:石井亮介、尾野島慎太朗、川崎ゆり子、斎藤章子、中島広隆、成田亜佑美、波佐谷聡、長谷川洋子、船津健太、吉田聡

2016年2月18日(木)〜28日(日)/彩の国さいたま芸術劇場 小ホール

公演によって当たり外れが激しいでお馴染みのマームとジプシー(個人の経験上)。今回は過去の作品を再構成して三部作として上演。実績のある過去作品、そして『Kと真夜中のほとりで』は代表作ということもあり、素晴らしい公演でした。

10年前のとある夜に消えてしまった女の子の不在(そして死)が、その兄や友人との関係性を通して描かれていく。作・演出の藤田さんの得意とする場面・会話のリフレインが、過去を巧妙に描き出していて、その不在がとても心に染みた。そう、繰り返される過去において、夜にさよならはできないし、夜が明けることはない。いつか朝は来るというのに。

劇中にとても印象的なフレーズがあって、

「この街を出ていくってことは、死ぬこととどう違うのだろう?」

というもの。

このフレーズが10年前に消えてしまった女の子の不在と重なって、心の中で何か引っかかった。この街に留まる人間にとっては、確かに、この街において不在であることは、死ぬことと変わらないのかもしれない。空を見上げれば、遠くに離れていたとしても、同じ空の下にいるって感じられるのにね。

「死」というテーマは多くの表現で扱われてきたテーマではあるけれど、「不在」という概念と重なり合わせることで、その差異を表出させ、改めて「死(あるいは不在)」を問うというやり方は、その演出とも相まって、とても効果的な表現に昇華されていた。

また、誰もが分かっているように、人は自分が死なない限り「死」を知ることはできない。語ることが可能なのは、自分がどう死と向き合っているかということ。

2時間弱の公演で描かれるのは、その消えてしまった女の子との思い出。登場人物はそれぞれの思い出の中での女の子との関係性、そして10年後の今、自分がその女の子の不在とどう向き合っているかを語る。繰り返される場面においても、その度に登場人物はわずかながら違う表情を見せる。その結果、その向き合い方は重層的に深くなっていく。

それぞれの関係性はもちろんすべてが異なるわけで、結果的にそれらの差異を見ることで、「死(不在)」がどのようなものなのか、より深く見る・考えることができる。本当に観に行って良かったと思える作品。

 

マームとジプシーは今日の舞台表現の世界において、間違いなく最重要な表現のうちの一つではあるけれど、この時代においてはテキスト自体が持つ表現の限界はより狭くなってきているようにも思う。単純な言葉で説明できないことが、世の中を見ていても溢れかえっているし。

更に一つ言うならば、このリフレインを多用した重層的な表現こそが、マームとジプシーの真髄だし、作・演出の藤田さんは、やっぱり演出家なのだろうと思う。

逆に、そう言った意味では以前、VACANTで観た『カタチノチガウ』は駄作と言わざるを得なかった。物語に比重を置いていた作品で演出もシンプルだったのだけれど、テキストの力だけではどうしようもないところがあって、とても残念だった記憶が蘇る。(青柳さんが体調不良で絶不調だったということもあるけれど)

 

でも、改めて、今回の公演は本当に良かった。一人で冷たい風にあたりながら駅へ向かう途中、色々と考えてしまった。

 

次は新しくオープンする空間で公演があるみたいだし、これも行きたいな。

 

拝。