森美術館での大規模個展より面白いと評判の、村上隆のコレクション展。
村上隆のスーパーフラット・コレクション ―蕭白、魯山人からキーファーまで―
もう、この写真だけで観に行ってきた気がします。
ある意味では「何でもあり」の膨大のコレクションに『スーパーフラット』という名前が付いていることが、とても興味深い。集められた作品の多くは、まったくもって『スーパーフラット』ではないのだけれど、それらを集めた村上隆の視点と思想に通底しているのは『スーパーフラット』な概念であるし、それらの作品群を一枚のフラットな面に並べられたモノとして見ると、それは一つの狂喜乱舞の世界として目前に現れるし、それはそれで面白かった。と言っても正味30分程度の鑑賞で会場を去ったけれど。
展示を観に行った日は朝からMOTで『東京アートミーティングⅥ "TOKYO"見えない都市を見せる』、『オノヨーコ | 私の窓から』と常設展、その後にSCAI THE BATHHOUSEにてダレン・アーモンドを観てから、一路みなとみらいへ。少しくらい疲れた状態で軽く観るくらいでちょうど良い展示のような気もする。
アート作品というものは、基本的には1対1で向き合った時に生まれる、作品と鑑賞者の関係性において価値あるいは意味が生まれるので、今回の展示は一つ一つの作品をじっくり見てもしょうがないとも言えるし、そこにごった返す人の群れ、その全体性が作り出す形あるいは虚像を見定めることが、この展示会に来る意義かもしれない。なんてことを考えなら散歩の気分で会場を歩く。
中には懐かしい作品もあれば、コレクションに入っているのが意外な作品もあり、なかなか興味深かった。そして、観終わって思うのは、『アートなんてものはやっぱり虚像だなぁ』と。まあ、だからこそ好きなわけだけれど。形あるモノなんて。網膜に映る2次元よりも、脳内で再構築される虚像の三次元にこそ興味がある。
ところで、会場でふと気になったのが、会場でひたすら無思考に撮影しているのはおじさんの姿だった。
彼は、ほぼ『記念撮影』レベルでかなり適当に撮影していたのだけれど、会場は撮影禁止ではなかったはずなので、特に問題もないのだけれど、なんだか「その撮影された写真、及びあなたの撮影するという行為にはまったく意味はないよね?」と思って。
前述の通り、アート作品は対面することでしか、本当の意味で『体験』はできないわけで、たとえ写真で見ても本質的にその作品を理解することには繋がらない。一般論として。その中で、ほとんど作品とまともに向き合うこともせずに写真だけを撮るおじさんが、とても興味深かった。
彼は家に帰ってその写真を見て、なんと言うのだろう。
「村上隆の見てきたよ、すごかった」とでも言うのだろうか。その「すごい」って何だろう。
でも、もしかしたら、このコレクションの感想としては、そんな言葉で十分かもしれない。確かに、その集める労力は少なくとも凄いと言わざるを得ない。
そう、そうやって空虚な撮影をすることもまた一興かもしれない。現代アートの展示会は、前述の意味で、写真撮影がOKのところが多いけれど、今やたとえ、これが古典絵画の展示会だとしても、スマホで撮影する人は止められないし、その空虚な撮影された写真によって世界がどう変わっていくのか見てみたい気もする。
昔、映像関係の新規事業の調査をしていた時、高解像度の道をひたすら歩むディスプレイについて、マチュピチュが映る画面を見ながら、「もう旅行する意味なんてない時代が来るよね」とドヤ顔で語っていたおじさんがいたけれど、なんて頭の悪い人なんだろうって思った記憶が蘇る。じゃあ、目が見えなかったら死ぬしかないね。
無思考に生きるって怖い。ある意味では、それが日本人の「スーパーフラット」なメンタリティ。に幸あれ。
拝。