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50の風景と、風景にまつわる言葉。

小さな世界の窓から見える色々な風景のひとつずつ。

ミラコスタとディズニーシー(とTIPSと)

 

完成されたエンターテイメントというのは、楽しかったり、面白かったりするけれど、それ以上に「気持ちの良い」もので、そのような意味で、ディズニーリゾートはとても好きで。

ここしばらく2年に一度くらいのペースで行ってます。
基本はシーで。大人だから。

さて、個人的には、ディズニーシーと言えば、BBB(ビッグバンドビート)なのだけれど、最近、演出が変わったらしく、クオリティは一層増したのは間違いないけれど、演出は前のバージョンの方が間違いなくよかった。

このBBBは、最後の方にミッキーがあっと驚く腕を披露するのだけれど、そこに至るまでの流れというものがあって、それが新しいバージョンでは途切れてしまった。とても残念。そのサプライズがあってこそのBBBだったのに。もちろんリピーターの満足度という点では新演出は大切なのだろうけれど、こういうのってむつかしい。


本題に戻って、今回は豪華にミラコスタに宿泊してからのディズニーシーでした。

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このミラコスタ、宿泊施設としても非常に良かったけれど、それ以上に、宿泊者特典というものがあって、それについて、あまり欲しい情報がネットで見つからなかったので、自分なりにまとめてみます。

  • モノレールが無料

舞浜駅についてミラコスタまではけっこう距離があります。
モノレールが走っていて、それが500円くらい。
これは少しもったいないなとinfoで歩くとどれくらいか聞くと30分くらいはかかると。

そこで逆に「宿泊の方ですか?」と聞かれ、そうだと答えると、どうやらチェックインの人には無料で2dayのモノレールパスがもらえるとのこと。駅すぐのinfoにはたくさんカウンターが並んでいて、事前チェックインもできるよう。そこで予約の確認をして、無事にモノレールパスを入手。このあたり、流石、ディズニーリゾート。

ディズニーシーの一部にもなっているミラコスタ
ホテル内からもディズニーシーの様子が覗けます。

そして、このレストランがポイント。

夜のショーの時間に合わせて予約を取っておくと、ホテルのテラスからショーを観ることができます。少し高いけれど席確保料も入っていると思えばお買い得かも。

今回はオチェーアノというレストランを予約。ちなみに、予約はビュッフェと、コースの2つがあり、それぞれ区画が分かれています。席は早い順で良い席が埋まってしまうけれど、ちゃんとショーの時間にはアナウンスがあってテラスが開放されるという段取り。

またビュッフェ席とコース席ではテラスも場所が異なります。どうやらビュッフェ席のテラスはかなり見切れるらしく場所の争奪戦が酷いらしい。なお、コース席の方は争奪戦に遅れてしまっても十分視界が確保できる場所はありそう。また、3段あって、真ん中の段が一番前の段と高低差があってオススメ。

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レストランの給仕もしっかりしていて、ショーの時間を計算して料理を一旦止めてくれるので、最後まで美味しく食べられます。料理自体もなかなかでした。

レストランから見る分にはチケットも要らないので、今回は初日にショーを制覇できたことで翌日はその分ゆっくり時間配分が出来てよかったです。(というか早めに帰宅した)

 

◆ハッピー15エントリー

そして、この特典が何よりも重要。
ディズニーリゾートのホテルに宿泊の人だけ、通常の開館時間より15分早く入れるという特典。

早朝から大勢の人が並んでいるディズニーリゾート。
この15分の差がどれくらい大きいことか。

ここで注意なのは、ミラコスタの場合は、ホテル内にもディズニーシーへの入口はあるけれど、朝のハッピー15エントリーについては、このエントランスではなく、外の通常のエントランスから入場になっているということ。

正確にはエントランスがたくさん並んでいる中の一番右のエントランスがこのアーリーエントリーの対象になっています。もちろん、ミラコスタの宿泊者だけでもかなりの人数になるので、わりと早く並ぶことをおすすめします。今回は8時一般開館(7:45に先行開館)だったので、7:00頃に並びました。その時点で50人くらいは並んでいました。

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  • ハッピー15エントリーの活用

さらに重要なのは7:45に先行入場しても、やっているアトラクションは2つしかないです。

   ①トイストーリーマニア ②タワーオフテラー

そして、99%の人は急ぎ足でトイストーリーマニアに向かいます。
ちなみに走ってはいけないことになっています。

また、ファストパスについては発券は8:00から開始。ということは、ここでまず「ファストパスなのかスタンバイ(並んで入る)のか」という選択肢が生まれます。

トイストーリーマニアは過去2回のディズニーシー体験の時は、いずれもファストパス発券も間に合わず乗れなかったという屈辱。今回は確実に乗る!ということでアトラクションに向かうこと5分。到着すると流石に先行入場しただけあってまだガラガラ。

迷わずスタンバイで入場。そして、ほとんどの状況においてスタンバイ入場が良いと思います。この時は待ち時間は2-3分。すぐに順番が回ってきました。むしろ、朝8時前にアトラクションに乗っている自分に、笑えてきたり。

さて、初めてのトイストーリーマニアは、正直なところ、まあまあ。親子で楽しめるし得点を競うアトラクションなので人気なのはよくわかる。ただ、物語性に乏しいし、アトラクションの最中もシューティングに集中してしまって、物語自体にあまり没入できない。あまりディズニーっぽくないアトラクションです。

 さて、おそくら外に出ると、一般入場の人が流れるようにやってきてるはず。そこで、今度はファストパス列に並ぶ。今回はそれで、9:40くらいの回のファストパスでした。もしかしたら、もう一回スタンバイ入場してからファストパスでもいけたかも。

ちなみに、今回はトイストーリーマニアの得点は158800点でした。検索すると攻略サイトもたくさんひっかかるけれど、そこまでやってもな、、というのが正直な感想。

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いずれにせよ、先行入場してトイストーリーマニアを早々に乗れたので、あとはのんびり楽しめました。

この日は結局、

と楽しんで、あとは船に乗ったり、列車に乗ったり。

ビッグバンドビートの抽選に外れたのが痛かった(何気にこの抽選でプランが大きく変わります)。あと、そういえば、個人的に好きだったストームライダーが終わってしまったのが残念。


夜のショーは観終わっているので、結局、19:00くらいのバスで帰宅。流石に朝の8時から遊んでいるので疲労感。地元に帰って、一気に夢の国から現実へ。

迷わず夕食は下世話にラーメン。

 

ごちそうさまでした。


拝。

 

 

形あるものにさえ、価格なんて、あってないようなものだという話。

 

アートとか、詩とか、形のないものに、価格なんて、あってないようなものだけれど、最近になって、そもそも形あるものにさえ、付いている価格に信憑性なんて無いなと思っていて、それが普段のちょっとした買物なんかにも広がっているなという話。

 
半年程前に購入したiPhoneのケースを、気持ち良いという理由だけで、外したり付けたりを繰り返していたら、合皮なのであっという間にボロボロになってしまい(こういう気持ち良さってあるけれど、何なんだろう、正に、無駄に気持ち良い)、買い替えようかなと、適当に画像検索していたら、気に入る商品を発見してクリックしてみたら、それはヤフオクのページだった(ところで、新しいヤフオクのロゴとあの黄色って狙い過ぎだと思う)。
 
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価格を見ていたら割と入札件数も多くて、最終的には3500円くらいで落ち着きそうだったその商品は、即決価格が5000円台に設定されていて、その価格で買う人もいるんだろうなと思って眺めていたのだけれど、出品者はどうやらどこかの業者のようで、これはと思って試しにその業者の名前で検索をかけてみた。
 
そうすると、検索にあっさりと引っかかってきたのは、他のマーケットサイトのページで、そこのストアにヤフオクで出品されていた物と同じ商品も販売されていて、その価格はそのサイトを見た時点で確認されていたヤフオクの入札価格を下回る価格だったわけで、在庫が残り一つだということもあり、そのままクリックして購入してみた。
 
そのサイトもヤフオクやメルカリのように、ユーザページ上で出品者と支払いや発送のステータスの確認や、メッセージのやり取りができるようになっていて、早速出品者から届いたメッセージはとても丁寧で、取り引きは終始スムーズで、数日後に無事に商品も到着。
 
終わってみて、改めてヤフオクのページを覗いてみたら、落札金額は自分の購入価格+1000円。そこにあるのは、少しだけ立ち止まって、数分かけて調べてみるだけの違いなのだけれど、たったそれだけで1000円も支払う金額が変わるというのは、ちょっとした驚きで、改めて情報というのはお金とイコールだし、定価というものは何も保証していないのだなと思ったわけで。
 
 
試しに「定価」という単語を大辞林で引いてみると、そこには『商品の、決まっている値段』と書いてある。でも、もはや、決まっている値段なんてないように思う。それは、Amazon価格.comで買物をしていれば、明白な事実。
 
今の時代においては、「定価」という言葉が意味するのは『その商品が、今すぐに手に入ることを保証する値段』と言った方が正しいような気がする。
 
例えば、もう一つの話。Amazonでの買物。
 
最近、Kindleを買ったのと、Microsoft OfficeMac版を購入したのだけれど(本当はどちらも個別にエントリしたいと思っている)、その購入というのも「定価」との睨み合いだった。
 
Amazonは基本的に定期的に何らかのキャンペーンをやっていて、Kindleについてはプライム会員価格があるので十分に安いのだけれど、それでも何かキャンペーンをそのうちやるだろうなと思っていたら、案の定、3月の末日の2日間だけ(だったか知らん)更に2,000円程の割引キャンペーンを開催していて、それで最終的に購入。いわゆる、通常価格からは6,000円くらいは安く買えたわけで、これは一つの情報による買物だとも思う。
 
また、Mac Office版についても、同様に数日限定での割引をやっていて、そのタイミングで購入。どちらも急ぎで必要なものでは決してないので、こうやって買物をすることが結果的には一番得する選択。
 
ヤフオクの件とは違って、Amazonの場合は「そのうち更にキャンペーンが乗っかってくるだろう」という予想も入っているので、純粋な情報とは言えないけれど、それでも過去の実績を調べていけば、比較的簡単に手にすることができる情報で、その結果、この2製品だけでも、何も考えずに買物するより、それなりに安くなってしまうので、その商品の「定価」について考えることは大切だなと。
 
むしろ、これまで物理的なショップだけで行っていた買物においては「定価」は意味があったかもしれないけれど、オンラインがメインになってくると、そうともいかない。当然、ヤフオクやメルカリで中古を探すという選択肢も入ってくるし、物を一つ手に入れるだけでも、考えることもたくさん。もちろん、考えたくなければ、何も考えずに「定価」で買えば良い。
 
もちろん、誰しもが同じ物は必ず同じ価格で買う世界の方が、みんな幸せのような気もするけれど、もはやそのような世界を期待することはできないし、一方で、しっかりと物の価値を推し量るきっかけになるような気もするし、実は良いのかもしれない。
 
と思いながら、メルカリやヤフオクにまんまとハマっているわけです。
 
 
拝。
 
 
 
 
 
 

BOSE SoundLink around-ear wireless headphones II 購入

 

東京から新潟方面へ片道約3時間程の出張が、月に5-6回くらい発生していて、特に新幹線に乗っている90分については音楽無しでは生きられないくらい。

今まで断線を繰り返していたイヤフォン。結局、いつダメになっても良いように、安いイヤフォンを使っていたものの、ここで少し奮発して、ヘッドフォン購入を思い立つ。

最初の候補は最近話題のbeats。携帯性もあることを考えると、Solo2が良さ気。そして、断線の憂き目に遭わないためにもwirelessは外せない。価格も20,000円くらいなので悪くないのだけれど、Amazonのレビューも不良品報告もあり、かといって、Appleのサイトでは30,000円。なんだか、踏ん切りがつかない。

というわけで、家電量販店に足を運んで、入念に視聴。beats、音はとても良いです。他社と比較しても一番良いかも。特に、ロックや低音の効いたクラブミュージックとの相性が良さそう。

ただ、この、Solo2はオンイヤー、すなわち耳に乗せるタイプなので、どうしても圧迫があることと、遮音性に問題がある。特に、3時間連続での使用を考えると、どうしても厳しい。耳が痛くなる姿が想像できる。重量も体感としてそこまで軽くはない。

ということもあり、beatsを候補から外し、他の製品を試す。最近出たSONYのwirelessヘッドフォンもデザインは良いのだけれど、重量が重すぎる(Solo2の203gに対して290g。この差は致命的だと思う)。

 

そして、たどり着いたのが、BOSEのSoundLink around-ear wireless headphones IIというヘッドホン。この製品、ラウンドイヤーなので、耳への圧迫感もないし、ノイズキャンセリングではないものの、遮音性も十分。そいて、着けてみて、その軽さに驚く。数値は195gなのだけれど、他社と比べるとそれ以上に軽く感じる。

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肝心の音質は、とても上品な音作りという印象。beatsに比べると、メリハリはそこまで効いていないものの、仕事しながら聴く音楽については、より優しいBOSEのこのヘッドフォンは最適のように感じた。

 

さて、価格は30,000円強。今回は未使用品の中古を某オークションサイトで購入。20,000円でした。このBOSEはbeats人気に押されているのか、あまりネットでもレビューがないので、今回は少し紹介。

 

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パーケージを開けると、ソフトケースが登場。こちらに収納された状態で入っています。外出時の使用がメインなので、ケースはありがたい。なお、beatsのSolo2などと違い、イヤーパッドのところが内側に折り返すことができないので、そこまで収納時にコンパクトにはならないところが数少ない欠点。ただ、個人的にはそのような機構は増える分、壊れるリスクも高くなるので、個人的にはこのサイズで良い。

 

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操作系は右側のイヤーパッドの側面。ペアリングや、曲のコントロール、ボリューム調整はもちろん、マイクも付いているので電話応対も可能。操作性もかなり良く、何も複雑なことを考えることなく、簡単に操作可能。デザインも無駄な装飾もなくて好感度高いです。黒もあったけれど、少しつまらなくなってしまうデザインなので、白にしました。

 

まだ目的の出張に使っていないけれど、家の中でも、洗濯物干したり、料理している時に聴けるので、かなり使ってます。バッテリーの持ちも悪くない。充電もKindleのケーブルと共用できるので便利。

 

wirelessというのは本当に便利で、一度使うと多分やめられない。願わくば、次のモデルはノイズキャンセリング搭載か知らん。 

 

拝。

 

    

 

言葉と自由 / 最果タヒ「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

言葉、というものは、何でこんなにも言語によって違うのだろう、と。

素朴な疑問としても思うし、真剣に熟考に値する命題としても、度々考える。そして、言語はそれぞれの魅力がある。

英語で言えば、機知に富んだ多くの表現、仏語で言えば、口語・文語共に洗練された美しさ、あるいは、遠くアフリカのとある民族の現地であれば、そのシンプルな力強さ。

それぞれが使われる地域で実際に生活して、どの言語も好きになったし、どの言語も使うのも、異なる気持ちの良さがあった。

そして、日本語の良さは何だろうと思うと。

その良さは小説や詩など、表現する場合に特に顕著な気がしていて、それは、曖昧が故に想像力を聞く側にオープンにすることができる自由度のようなもので。外国語を日本語英語として取り込む柔軟さや、独自に派生するニッチな言語体系、あるいは、文法や単語に規定されるルールを破ることで生まれる表現の豊かさというか。

 

日本には、今、最果タヒ、という詩人がいて。

 

名前の響きも、その字面が生む想像も、とても素敵だと思う。
そして、その作品がそれ以上に素敵で、進行形の今における、日本語のあるべき姿がそこに見られる。


今回、新たに出版された「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

まだ購入していないけれど、そのページの中に無限に広がる想像力があると信じることができるし、そこに無限の可能性が広がっているということ自体に幸せを感じる。


少し昔の詩集「死んでしまう系の僕らに」の後書きの言葉がとてもよくて、それは、要約(意訳)すると、


 言葉というものはどこまでも自由なものだし、
 文法や単語やその他の言葉を規定するものというのは気にせず、
 自分の中にあるその何かをそのまま言葉として誰しもが表現すればよい。


といったようなことで、それこそが、言葉が持つ素晴らしさだし、そして、日本語という言語が持つ、強さだと思う。


コミュニケーションというものが、人間社会において言語が発達して主要な要因ではあるけれど、一方でコミュニケーションに占める言語の割合はそこまで多くもない(大半は表情やしぐさといった非言語表現)。

そうなると、そのわずかな割合のコミュニケーション要員のために、言語を数々のルールで縛って、同じような言葉を誰しもが語るのはつまらないなと思う。その対象が何であれ、言葉を発すれば、それは表現だし、何か文章を書けば、それも一つの表現となるわけで。


もういっその事、テレパシーで会話できたら良いのに。思念体のようなもので。


拝。

 

能と歌舞伎 / コトリ会議「あたたたかな北上」

 

もう、15年以上前のこと、大学受験の時の話。

たしか、あれは国際基督教大学の入試だった気がする。
特徴的な入試をする大学で、文章理解と英語と知能テストのようなもの、そのあたりがその入試の内容だったと思う。少なくとも、いわゆる「受験勉強」が必要な大学ではなくて、だから自分は受けたのだった。(正確には高校の先生に勧められた)

文章理解は長文の読解(日本語だったのか英語だったのか記憶が曖昧)で、入試というものは答えさえわかれば文章の内容そのものに注意を払う必要はまったくないのだけれど、幾つかあった長文の中の一つの内容のことを今でもよく思い出すし、それは自分の観劇における一つの指標と今もなっている。

それは、「能」が生み出す空間の密度と深さについての文章だった。

 

その長文の論考は、外国人によるもので、日本の芸能文化の中で、能と歌舞伎を対比して、論考を展開していた。

結論から言うと、その文章は「いかに能が歌舞伎に対して素晴らしいか」について書かれた文章だった。

そこには、決して派手ではない能において、シテとワキの役目がどのようなものであるか、その精神性がどのようなものであるか、それが日本人に精神にどのような深く結びついており、その精神性の記号となっているのか、等々が能に対する愛情と共に綴られていた(と記憶している)。

その時、自分は能を自分の目で見たことはなかったのだけれど、能の素晴らしさというものが、とてもしっくりと頭と心の中に入っていたし、それが今でも心に刻まれているし、その後、舞台表現を色々と観る上で、自分の中のひとつの基盤となっているように思う。それは、そこに展開される事象の表面だけではなく、その後ろに広がる深さを観るということ。

とても不思議なもので、その文章は同じ日本人ではなく、外国人によって書かれているものなのに、時折、ふと思い出してしまっている。

 

舞台表現がなぜ面白いのか。
それは、舞台上ですべてが起こっているからで。

舞台上にある役者と舞台装置と流れる時間がすべて。その制約の中で、どこまで表現が昇華されていくのか、それが、舞台表現をする上でのすべてだと言える。


そのような意味では、やはり能は、最高峰だと言えると、心から思う。


ミニマルな舞台と演者の動き。能面を被ることで役者の表情は限定される。その中で、あらゆる想いが、時には数百年の時間、あるいは数百キロの距離を超えて、交錯する。理解しようとすれば、わからないことが多いのは事実。それでも、能を観ると、本当に心から痺れてしまうのは何故だろう。

 

そのような静かな表現に眠る深遠さ、といったようなものが、コトリ会議の舞台にはあった。

先日、こまばアゴラ劇場にて、短距離男道ミサイル×オレンヂスタ×コトリ会議 合同企画「対ゲキだヨ!全員集合~お題は家族♨︎3劇団で3県回るヨ!!!~」を観てきた。

短距離男道ミサイル×オレンヂスタ×コトリ会議| 2016 – 2017プログラム|公演案内|こまばアゴラ劇場

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3つの劇団による公演で、その中の1つが、コトリ会議による「あたたたかな北上」だった。

とてもシンプルな舞台と役者の配置。薄暗い舞台照明の中で展開されるのは、心の奥深くに眠る声。遠い宇宙のずっとずっと先に届くわけのない心の声の断片は、リフレインによって、少しずつ増幅され、その声は客席にいる観客の胸を打ち、届くべき相手の心に響きわたる。

たった40分程度の作品なのに、どこまでも深く心が沈み込んでいったし、遠い知らない世界に思いを馳せてしまった。とても日本人らしい表現だと思う。


生きていることは、当たり前だけれど一回性の出来事で、表現することもまた一回性の出来事でしかない。そう考えると、舞台で表現するというのは、表現において至極真っ当な方法であって。

たまに映画を観に行ったりもするけれど(そして少なく無いケースでがっかりしてしまう)、たとえ面白くなくても面白いのが舞台表現で、再帰的に言うと、それが舞台を観に行く理由。

 

舞台を観終わって、帰る途中、また、ふと、その文章を思い出した。

 

拝。

 

 

 

最先端なのか異端なのか / ミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」

Nibrol主催の矢内原美邦によるミクニヤナイハラプロジェクト。その公演「東京ノート」を観劇。いわゆる『静かな演劇』を代表するマスターピースであるこの作品を、その対極に位置するような表現を当然の如く展開する矢内原美邦が演出するとあって、幾つもの視点で必観。

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ともあれ、まずはこのポスターが最高。「東京」という記号が、もはや大きな物語ではなく、『個々の東京』としか存在し得ないこの時代をまさに表現しているように見える。公演が始まる少し前に完成したらしく、チラシには使われていなかったこのデザイン。手元に残しておきたいと思える一枚。

タイトルに「東京」という記号が含まれるこの作品。まず、この時代において「東京」とはどのような場所なのか。人によってその答えは異なると思う。そしてそれこそが、この「東京」の定義。ありとあらゆる情報が内包され、ありとあらゆる場所や時間にそれらが無秩序に展開される。それは、ビル広告に始まり、ディスプレイ、電車の中吊りやモニター、あるいはスマートフォンの中のつぶやきや投稿など。この10年あまりで、ある個人が処理する情報は、時間単位で言えば、数倍あるいは数十倍に膨らんでいるように思う。すべての情報は浮遊して、目前には常に何らかの情報が提示されている。そういった中、それらの情報を無意識的に取捨選択し、自分にとって重要あるいは関心を持つ事柄だけを上手にピックアップする能力が育っている。この密度が今や、今を東京で生きる人間にとっては「普通」の密度。

一方で、「メディア」はその密度を体現しているとは言い切れず、今でもテレビを付ければニュース番組は淡々と事件を述べているし、CMは相変わらずの長さで展開しているし、ドラマは1時間という尺がお決まりになっている。他のメディア、例えば映画を見ても、その長さは決まったように2時間が平均となっている(もちろん、この前の『ハッピーアワー』のような作品もあるけれど)。でも、東京の密度において、この「長さ」は本当に適当なものだろうか?

そして、演劇に代表される舞台表現こそ、この密度とはまったく相容れない所に位置付けられると言える。舞台においては時間の速度は常に一定。YouTubeのように不要な映像をスキップすることはできず、そこから得られる情報は常に時間と等倍のものでしかない。また、SNSのように双方向のコミュニケーションは発生せず、そこには常に演じる者と観る者という関係性しかない。舞台上で他人称は存在し得るとも、役者と観客の関係性が交換されることはない。

オリジナルの青年団による「東京ノート」の初演は1994年。それは、まだ、辛うじて『大きな物語』が共有されていた時代。そして、同じ密度の空気感が共有されていた時代。そのような時代において、まさに「等倍の演劇」である青年団の戯曲は時代を象徴的に表現していたし、それが「東京ノート」がマスターピースと呼ばれる所以でもある。では、そのような戯曲をこの2016年に表現する意味は?

矢内原美邦と彼女が率いるNibrolに関して言えば、結果的にようやく時代が追いついたのだなと、こうやって作品を観て改めて思う。超高速での発話と動きを特徴とするその作品を初めて観たのはもう10年以上前になるけれど、宮沢章夫の言葉を借りるならば、文字通り「よくわからなかった」ということになる。それは、まさに異端の表現だった。ただ、もう一つ感想を付け足すとすれば「それでも面白かった」。いつかの公演のアフタートークで宮沢章夫矢内原美邦に「全部を聞き取れないし、よくわからない」という内容を感想を述べたらしく、それに対して矢内原は「それでも耳には聞こえている」と答えたらしい。これって、まさにその未来にある21世紀の東京の密度を見据えて作品を作っていたとしか思えない。つまり、現代においては対峙する情報は既に一個人が処理できる容量を超えてしまっている。このような時代に置いては意識的にではなく、無意識的に情報を取捨選択していくことでしか生きる術はない。そして、そのようなatitudeが「表現」においても求められる。矢内原美邦の作品は、本来、時代とは逆行しているはずの舞台表現というフィールドにおいて、いつの間にか最先端の表現となってしまっている。身体性が何よりも増して強固な表現になるなんて、本当にワクワクする。

このミクニヤナイハラプロジェクト「東京ノート」は本当に圧倒的な作品で、矢内原美邦の身体性が拡張する形で、役者、映像、照明に乗り移って表現に昇華されていくよう。役者と役者の間を飛び跳ねるように移っていく主体。そして、実際に舞台上を飛び回るように何度も何度も全力で往復する身体。その中の無意識が映像となって広がっていく。この「東京」というノートをパラパラとめくっていくかのように、ひたすら目で耳で一瞬一瞬を追っていった。

残念なことに、遠くで戦争を起こっていて、この日本あるいは東京でも、その戦争を間接的には感じるようになってしまっていて、その「遠く」と「近く」の間に漂う、この空気感がそこには表現されていて。

作品を観終わって、面白かったとか、つまらなかったとか、ではなく、生きるということに対して完全に向き合っていた時間がそこに流れていて、そういう作品を観ることができたという幸せ。とても75分という密度だっただなんて信じられない。

 

もう二度と上演されることではないだろう作品に合掌。

 

拝。

 

5時間17分の『ハッピーアワー』

ようやく書き上げたので更新です。

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特にミニシアター系の映画館においてはそうだけれど、そこに足を運ぶべきか検討する際、「その映画館自体を信頼できるか」が「その映画監督が信頼できるか」ということに対して、重要度において勝ることが多々ある。

 
これは、観ようとする映画の質によっては特に顕著で、例えばそれが「5時間17分の作品で、3部に分かれていて、通し券でも3600円で、もし観るのであれば12時から19時というほぼ半日を費やす必要がある」ような作品の場合は、自分を信じる以上に、その映画館を信じる必要がある。
 
自分にとっては「イメージフォーラム」という映画館がまさにそうで、相田監督の作品や、今でも鮮烈に記憶が蘇る『エッセンシャル・キリング』、そして近年では、自分史上最高の映画体験だった『FORMA』など、ある意味では大変お世話になってきた。
 
そして、今回、映画『ハッピーアワー』をようやく上映最終日に観てきた。昼前にチケットを購入して整理番号は23番。12:50の第1部を皮切りに、19:00終了の第3部まで堪能。最終日だけあって、平日にも関わらず、客席は8割程度埋まっていて、これだけの人がこのような映画体験を同時にするというのは不思議なものだなと思う。
 

 
さて、ともあれ、この映画。
 
出演者はほぼすべてが素人。そのような役者が海外の映画祭で最優秀女優賞を取ったというのは興味深くて、まさにinternationalな視点で観た時に「演技」がどう映るのか、という部分でとても示唆に富む結果だと思う。つまり、「素人っぽさ」という表象はその言語自体と密接に結びついていて、それを母国語とするかどうかで、その「素人っぽさ」の見え方も変わるわけで。この映画のそういった「素人っぽさ」は、海外の人から見ると、ある種の静的な演技に見えるのだろう。小津の作品がそうだったように。
 
そう言った意味では、この「ハッピーアワー」という作品は『リアリティをどのように表現するか』ということについて、挑戦的なアプローチを取っていて、その尺の長さもそうだし、役者の選び方というのもそれに当てはまる。
 
古くから言えば、映画「ポチョムキン」から始まるモンタージュという技法は、鑑賞者の想像力を使うことで、そこにフィクションとしての物語を発生させていたけれど、この「ハッピーアワー」においては、長尺回しが比較的多くある。そこには、編集されていない時間が多く流れている。それこそが、この作品が三部作になっている大きな要因ではあるけれど、多くの映画と違い編集を極力行わないことで、逆説的にそこに現れる物語がフィクションではなくノンフィクショナルなものに見えてくる仕掛けになっている。また、プロの役者を使わないことで、そこに展開される物語がいかにも「演じられている」という通常の映画における状況を脱構築しようとしている。そこにいる役者はあるいは素でもそのような人間なのではないか、と観ながら思ってしまう。それくらい、出演している役者の多くは「下手」なのだ。
 
普通、「下手」な演技に付き合わされるのは苦痛なものだけれど、この映画の場合は、その度合いの攻め方が絶妙。ギリギリまで引っ張って、次の展開に繋げる。これが続いていく。そして、ストーリー自体も特別変わったものではないのだけれど、主演の4人の関係性がどう変わっていくのか、といった点で鑑賞者を釘付けにすることに成功している。
 
物語を簡単に説明すると、登場するのは30を過ぎた仲良しの女性4人組。彼女たちは「自分たちは仲が良い」という信念で繋がっていて、ことあるごとにそれをお互い確認することで安心している。そのような中、第一部の最後に、4人のうちの1人が不倫裁判中であることを告白することで、その関係性に変化が起きる。面白いのは、そのような反社会的な事に対しても、基本的には彼女たちにとっては「自分たちは正しい」と信じきっていること。逆に言うと、そう信じることでしか、自分たちを繋ぎ止める事はできないというのが彼女たちのあり方で、周りの3人はその離婚裁判中の1人を(客観的に見て正当な理由が見当たらないにも関わらず)サポートする。そして、それぞれが自分の置かれている状況に疑問を持ち始め、一人は不倫をし、一人は離婚する意思を固める。
 
鑑賞者にとっては、客観的に見て、他の3人が不貞に走るような理由はまったく考えられない。そして、その彼女たち自身もおそらく自分のやっていることをしっかり説明することもできない。彼女たちにとっては「仲間がそうしているから」という外付けの理由だけが、行動を説明する唯一の理由になっている。
 
物語としては泥沼の夫婦劇といったところだけれど、主役の4人にとっては、起きていることはすべて正しい。ある意味では、彼女たちはまさに幸せな時間、「ハッピーアワー」を過ごしている。 という内容。
 
まあ、このような物語を5時間強も見せられるのは、ちょっと厳しいかな、というのが正直な感想。作品の特徴、そしてそのアプローチについては、非常に面白いし、他の作品と比べても突出した部分がある。しかし、冒頭に書いたように、ある作品が、前後と合わせて6時間程の時間を拘束し、それなりのお金を払わせるという時、そこには相応の責任が発生すると思うし、この「ハッピーアワー」という、ひたすら登場人物の再帰的な物語を見せられるという作品が、その責任を果たせているのかということについては大いに疑問が残る。
 
簡単に言うと「少しやり過ぎ」。特に、長回しで展開される前半のワークショップ風景や、後半のディスコでの風景や、小説の朗読会は冗長過ぎた。映画の狙いは理解できるけれど、コンセプトだけが先行する映画を、手放しに素晴らしいと褒めることはできない。
 
一方で、主演の4人については、最後まで適度に「下手」な演技を続けていて、素晴らしかった。それぞれのキャラクターもしっかりと出せて、現実なのか非現実なのか、その境目が曖昧になっていく感じがとても良かった。
 
とりあえず、第三部が終わった後の、その劇場の雰囲気、とても独特でした。こういった映画体験というのも人生に一回くらいは良いと思う。
 
 
拝。